従業員エンゲージメントの頭を抑え続けるモチベーションの低さ

発端になったのは2017年に発表された米国ギャラップ社の調査結果でした。日本では「熱意あふれる」と訳された、エンゲージされている社員の割合はたったの6%。139ヵ国132位というあまりの結果に我々は衝撃を受け、以来、多くの企業が従業員エンゲージメント向上に取り組んできました。

ここであらためて調査の質問項目を見てみると、小手先の対策では本質的な改善は望めないことがよくわかります。
「あなたは仕事で何を期待されているかを知っていますか」「あなたの意見は尊重されていますか」「会社の使命・目的はあなたの仕事に誇りを与えてくれますか」……等々

自分と仕事との関係、自分と仲間との関係、自分と会社や社会との関係を主体的に問い、周囲と話し合い、考えることなしには答えにくい項目が並んでいます。

現状把握のサーベイなどもそうですが、一人ひとりが意思を込めて考え抜くという習慣がないとしたら、もしも調査結果で良いスコアが出たとしてもあまり意味はないでしょう。

組織風土改革の源流にある「ものの見方と価値観」

スコラ・コンサルト創業者の柴田昌治がスコラ式風土改革の原点にある「ものの見方」として、その歴史観を最初に書籍の中で明らかにしたのは2009年の『考え抜く社員を増やせ!』(日本経済新聞出版社)です。同書では、封建社会から資本主義社会に移行したことの意味について、次のように語られています。

《日本的風土から生まれたプロセス思考》

私の歴史認識のひとつに、「中世や封建時代というものの特性は、規範やルールでがっちり押さえ込むことで社会は安定していた」というのがあります。こうした規範やルールは基本的に支配層に都合のよいものであったのですが、支配層も同時にこの規範に縛られていたのです。(中略)こうした規範と人間の関係は、多くの場合、理不尽さを内包していました。なぜなら、規範は伝統となり、社会の中に深く根づき、道徳にもなっていました。当然ですが、そこにある矛盾を解決しうる可能性はほとんどなかっただろうと思われるからです。
(中略)
これに対し、資本主義(資本の論理)が世の中を動かすようになるというのはどういうことかと言えば、人間が生きていくために必要なものを作ったり、売ったり買ったりという選択が、原理的には、誰にも自由にできるようになったということです。(中略)
この資本というものがもたらすダイナミズムは,人間の精神に非常に大きな影響を与えてきました。資本主義の時代になって、自らの責任で選択せざるを得ない環境を通して人々は考えざるを得なくなりました。(後略)

 

そして、さらに民主主義との両立についてもふれています。

(前略)社会の中で人が幸せになるには、問題解決を可能にする基本的条件である民主主義の原則が不可欠です。民主主義は、問題解決を可能にするもっとも基本的な社会のルールであり、資本主義とともに発達してきたのです。
そういう意味では、「時に対立する」資本主義が持つダイナミズムと、民主主義との間に生じる問題を克服していくことが、組織や社会を進化させていくのに必要だ、と考えています。組織や社会を進化させていくには、それに見合った価値観が必要です。つまり、民主主義社会を進化させていこうと思うなら、問題があることが問題ではなく、問題が解決されていかないことが問題なのだ、という原則を忘れてはならない、ということです。
この価値観が、組織の進化を促し、組織の中で人を幸せにしていく一番基本になる価値観です。(後略)

 

言わずもがなのことですが、柴田昌治は歴史の専門家ではありません。あくまで彼自身の価値観に基づいた主観的な見解としてではありましたが、当時から今に至るまで、なぜスコラ・コンサルトが人の持つ主体性や組織の持つ可能性、といったことにこだわり続けてきたのか、まちがいなくその源流がこの歴史観の中にあります。

資本主義というシステムにはさまざまな欠点があり、それが現代社会における重要な問題を引き起こしているという現実を認めたうえで、なお、柴田は資本主義社会に対してポジティブな意味を認めています。それをあらわしたのが「資本主義のダイナミズム」という言葉でした。端的に解説すれば、資本主義のダイナミズムとは、人間が自分の意思によって何者にもなれる、少なくとも挑戦することはできる、という可能性を指しています。多くの人々の身分や職業が生まれながらに決まっていた封建社会との大きな差異がここにあり、そのことの持つ意味は大きいと柴田は言ったのでした。

近代とは「個人の生き方」が問われる時代

ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を書いたのが1774年。「それ以前には“青年の悩み”というものは存在しなかった。なぜなら『青年期』というものがなかったから」という話を聞いたことがあります。

身分と職業が生家によって決まっていた時代には、少年少女は長じるとそのまま当然のように決められた道に進み、大人になり、年老いていきました。しかし、資本主義のダイナミズムが働く近代になり、職業選択の自由が生まれると、人は自分がいかなる職業に就き、いかなる人生を歩もうとするのかを自分で考えてもよい、あるいは、考えなくてはいけないことになりました。その結果、子どもと大人の間に「青年期」が生まれ、自由とともに悩みも生まれたのです。

ヨーロッパに近代社会が訪れて250年以上。ルネサンス以降を近代とすれば、すでに数百年がたちます。対する日本では、近代といえば主に明治維新以降を指すため、時間的にはまだ150年ほど。その間ずっと、第二次世界大戦の敗戦期を除けば、奇跡のような右肩上がりの経済成長が続いてきました。それが1990年代に終焉を迎え、今は歴史的に大きな曲がり角に差しかかっていると言えます。

どのような曲がり角でしょうか? ついに私たち日本人も「自分がいかに生きるべきか」を自分自身で考えなくてはならない時代、あるいは自分自身で主体的に考え、決めてよい時代になった、という大きな転換点に立っているのだと思います。いかなる仕事を選び、いかなる人生を送るのか。この大事なことを、たまたま入社した会社が決めてくれるのではなく、“自分自身で選び取っていく”時代だということです。

自分らしい生き方と切り離せない〈拓く場〉

しかし、「自分の人生を会社に決めてもらうのではなく、自分自身が決めていく」ことの重要性が、まだまだ問題にすらなっていないのが日本の現状ではないか、というのが最近の柴田昌治の問題意識です。

社会でいえば、投票率の低さや少子高齢化時代の先行き不安が問題になり、ビジネスでは、ほぼすべての業界でビジネスモデル転換や新規事業創出が重要な課題として語られています。では、こうした問題のもっと手前にある根本のところで「我々は、本当の意味で自分で決めた、自分らしい人生を生きているのか」ということを問い、考え、語り合っている企業や組織はどれくらいあるでしょうか。

これからの経営に求められる“人の価値の最大化”、人的資本に関わるさまざまな課題は、この根源的な問いを抜きには考えられないものです。つねに問題が発生場所から提示され、それに関わる人たちが当事者となって改善、解決していこうとするエネルギーは、自分にとって意味のある“めざすもの”、仕事に対する誇りや働きがいから生まれてきます。誰かに言われて、立場に迫られてそうなるのではなく、主体性は自らの動機に根ざして発揮されることがポイントなのです。

社会や経済の不安定な環境を前提に、とんでもない変化が起こりうる世界と向き合っていく上では、各部分が主体的に柔軟に動ける組織の自律性が必要です。それを支える条件としても、一人ひとりが芯のところで「自分はどんな生き方をするのか」「自分にとって人生の意味は何か」といった問いかけをし、考え抜くことが不可欠になります。

そんな明確には答えの出ない問いに向き合って、話し合うのが〈拓く場〉です。

2023年の年頭コラムで柴田は〈拓く場〉について以下のように述べています。“私たちは、〈拓く場〉で「そもそも自分の人生にはどんな意味があるのか」といった自分と向き合う議論からスタートすることが人材育成には不可欠だと考えているのです”。

人生の意味や生き方。そうそう簡単に答えの出せる問いではありません。しかし、このようなことを真正面からみんなで考えることは、キャリアのために会社の未来と自分の将来を考えるといった人材育成プログラムのような意味あいを高く超えて、組織の人々に新しい価値観や考える習慣をもたらします。日本企業で働く経営陣から現場層まで、できるかぎり多くの人に今こそ必要な場なのです。

数百年、ひょっとしたらもっと長きにわたって「個人」という概念を鍛えてきたヨーロッパとは違い、日本では「個人」の概念はまだまだ発展途上だと思います。しかし、その代わりに「仲間」や「チーム」の感覚は古くから鍛えられ、海外では他者に共感する「エンパシー能力」と呼ばれる力を日本人の多くは具えています。この特徴を上手に生かし、仲間とともに「簡単に答えの見つからない問い」について深く探求していくことができるのが〈拓く場〉の大きな価値です。

今という変化の激しい時代も、このような場を通じて人や組織が新たな可能性を拓いていくことができれば、「不安の時代」から、「自分らしく生きることが仕事の成果につながる時代」、ひいては「自分らしく生きることが社会を良くすることにつながる時代」へと変わっていくのではないか。そんな明るい期待を私は持っています。