自己中心の考え方を捨てる

ある少年がデパートの上から、雨に濡れた銀座の街並みを見ている。少年は、行き交う自動車、遠くまで続く建物群を眺めながら、不思議な思いにかられる。
「自動車の中、建物の中には、無数の人間がいる。道を歩く人はぼくがここから見ていることを知らない。そして、同じようにぼくは気がついていないけど、このぼくをどっかのビルから見ている人がいるかもしれない」
子どもは、自分の家族、自分の家、自分の家の近所と、自分を中心にして世界を認識していく。そんなひとりの少年がはじめて世界を網の目のように張り巡らされたネットワークととらえた瞬間。

吉野源三郎氏の著作『君たちはどう生きるか』の第一章、「へんな体験」と題された物語の一シーンです。
もともとは1937年の刊行。日中戦争の始まった年です。日本が軍国主義に突き進んでいく中、「せめて次代を担う少年少女たちに少しでも良い影響を与えたい、残したい」という思いで、小説の形を借りて書かれたメッセージでした。
その本の最初のテーマが「ネットワークのなかの自分」です。
小説の中で、少年にその叔父さんが語りかけたのは、こんな内容です。

世界中の誰もが天動説を信じていた時代に、コペルニクスは地動説を唱えた。今では小学生でも知っていることだが、長い間、地動説は非難や迫害を受けたりした。人間とはそれほどアタマの固いものであるということは君も知っているかもしれない。
でも、天動説と地動説の話が教えてくれることはそれだけじゃない。
重要なのは、「人間はどうしても自分を中心にものごとを考えてしまう」ってことなんだ。
自分中心の考えを抜けきっている大人は実はまれにしかいない。特に損得のかかわる話において、本当に自分を離れて客観的に考えられる人は少ないんだ。
しかし、天動説で自分を中心に考えている間は宇宙のことがわからなかったように、世の中を本当に知るためには自分中心の考え方を捨てなくてはならない。だから、今日の君の体験、君が感じたことはとても大きな意味を持っている。どうか、ずっと心に残していってほしい。

激動の時代に、吉野氏が命がけで残したメッセージの意味は、今もまったく薄れていないように思います。

同じ志を持つ仲間を組織していく「コアネットワーク」

経済産業省が「社会人基礎力」として定義した3つの能力について、総論では特に異論はありません。しかし、私自身の細かいこだわりでひとつ申し上げるならば、3つのうち一番目が「前に踏み出す力」で、三番目が「チームで働く力」だという点については注意が必要であると思っています。

右肩上がりに伸びてきた時代のなごりなのか、「歯を食いしばってでも、地を這ってでも、そして【自分ひとり】であっても、がんばり抜くことが重要だ!」という論はいまだに根強いものです。このような考えの持ち主は、強権的な管理職だけではなく、熱い思いで風土改革をしたいと思う現場層の方にも意外とたくさん見受けられます。支援先で出会った印象深いコアメンバーのこんな言葉があります。
「会社という山は絶対に動かないかもしれない。でも、おれは一人でも戦う。竹槍で討ち死にするだけかもしれないけど、それでも戦うよ」

自分から動くこと、「一歩前に出る行動力」はもちろん大切です。しかし、私たちは、多くの支援の中から得た「変革は仲間づくり」である、という経験則を大切にしています。自分の思いを語るだけでなく、周囲の人の思いを引き出し、同じ志を持つ仲間を組織していくという「コアネットワーク」の考え方です。
一人では実現しなかったアイディアが、仲間を集めたら現実のものになった、という事例を私たちはたくさん知っています。仲間の存在が個人の秘めたる力や行動を引き出す、あるいは強化するのです。

繰り返しますが、経産省の掲げた3つの能力に異論はありません。ただ、力を込めて付け加えたいのは、「前に踏み出す力」は「チームで働く力」に大きく影響を受ける、ということです。「前に踏み出す力」はそれ自体ではなかなか発揮されにくいし、また風土・体質のあまりよくない組織では潰されてしまうことも多いのが現実です。

企業の中で、社会人基礎力を考えるとき、自分自身を多くの仲間の中のひとり、すなわちネットワークの一部と感じるとらえ方がとても大切なのではないかと思います。また、そう感じることのできる組織がこれからの企業には必須であろうと思います。
思えば、今の世界を覆う経済危機も、そのおおもとをたどれば、人が「自分中心ではなく、ネットワークの中の自分」という考えを持てていないことにあるのかもしれません。
会社には仲間がいる。そして、会社もまた世の中というネットワークの中の一社である。そう感じられたとき、実体と乖離した金融経済空間が現実化してひとり歩きしてしまうような世の中から、「全体にとって、何が必要か」をつねに問うことのできる公器としての企業が育つ世の中へと変わるのかもしれません。

そうそう、前述の「討ち死にしてでも!」と言っていたコアメンバーは、その後たくさんの仲間を集めて、コアネットワークをつくり上げました。コアネットワークの中からは、彼の後を継いでいく若手社員が育っています。その若手社員は、明るく元気にこんなことを言っています。
「もう山は動き始めていますよ!」