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パラレルワークの「オンとオフ」とは?
仕事がくれる至極の喜び。要するに、ものすごくやりがいがあるのです。
一方で、私の毎日はとても忙しく、いわゆるサラリーマンにとっての「土日」という意味での休日はないといえます。しかし、だからといって、サラリーマンにとっての「週7日連続勤務」のような状態からはほど遠く、毎日なにがしかの仕事をし、毎日それなりの休息をしています。
そういう生活を送っているうちに、私は自分の中のある変化に気づきました。
「オンとオフ」という概念がいつの間にか薄れているのです。それはもちろん、「常にオン」という状態に慣れてしまった、という意味ではありません。「オン」と「オフ」という感覚そのものがない世界に移行してしまった、という感じです。
「暮らし」に溶け込んでいく仕事
じつは、「オンとオフ」「仕事とプライベート」というような概念は、ほんのここ数十年間に先進国を中心とした一部の世界で支配的になってきた考えであり、もう少し昔に遡ってみると、ほとんどの人はそんなことを考えずに生きていたのかもしれません。
そのことに気づいたのは、4歳違いの弟と話していたときです。
彼は私よりもずっと早くに、いわゆる「パラレルキャリア」の道を歩んでいます。日本画家にして、きこり。親族が経営していた小さな食品加工工場の経営を引き継いで社長をやりながら、自家用に米や大豆を作る百姓でもあります。
子どもが生まれてからは、その子たちが通うオルタナティブスクールにも関わり、子どもたちを馬に乗せたり、馬の世話をする時間を受け持っています。
もはやパラレルキャリアと呼ぶよりも「パラレルライフ」と呼ぶほうが適切な気がします。
「それにしてもさ」と、私は弟に問いかけました。
「自分のやっていることが仕事なのか、仕事じゃないのか、ときどきわからなくなるよね?」
弟の答えはこうでした。
「仕事か仕事じゃないかっていうこと自体、考えたことがないなあ。ぼくにとっては、ただ暮らしていくっていうだけなんだよね」
暮らし。LIFEでありLIVING。
仕事とプライベートではなく、それらが全部、混然一体となって暮らしていくこと。「生活」という呼び方よりも、やはり「暮らし」と呼んだほうがふさわしいような気がします。
これが、これからの時代の大事なキーワードなのではないか。弟の言葉を聞き、自分自身の中の変化を感じながら、今の私は強くそう思い始めています。
高度成長の副作用、「個の埋没」が尾を引く日本
そもそも庶民が「個人の生き方」を焦点にして当たり前に人生を考えるようになったのは近代以降のことではないかと思います。それ以前の封建社会では、ほとんどの人々が親のやっていた仕事を子どものうちから習い覚え、一生かけてそれを受け継ぎ、また自分の子に引き継ぐ、ということを繰り返すのが人生でした。
ルソーなどの思想家が現れて「個人」や「市民」の概念が生まれ、フランス革命や産業革命を経て資本主義社会が確立していく中で、人は「自分はどう生きようか」という問題に出会うことになります。
それは当初、主に「自分はどんな職業を選ぼうか」という問題として顕在化してきました。親がやっている仕事以外の仕事を選べる可能性が生まれたとき、必然的に「自分が選ぶ」という意識が生まれ、「では、自分はどういう人生を生きるために、どんな仕事を選ぶのか」という問いに発展していったのだろうと思います。
日本でも明治維新以降に同様の変化が起きましたが、日本人の持つ文化的な特徴が西欧諸国とは違う発展の仕方を生み出しました。その特徴とは、ハイコンテクストな共同体意識の強い社会で培われた「共感力」です。
「同調性」にもつながるこの特質によって、日本には「メンバーシップ型雇用による家族主義の大企業」というものが生まれた、というのが私の見方です。
もちろん諸外国にも大企業は存在します。しかし、さかのぼってみると、日本の大企業の特徴は、それがあたかも「大きな家族」のような存在であったことです。そこに所属する社員が、自社を運命共同体として「自分の会社」と感じ、一種の共同所有のような意識を持つ、強い絆で結ばれた集団です。
これが戦後、世界に類を見ないほどのスピードで高度経済成長を実現する原動力になりました。しかし他方では、「個人の生き方を決めるのは会社」という依存的な意識、「黙って会社に従う」といった行動規範にもつながっていきます。
そういう側面が、日本がまだまだ個人の生き方という点では未成熟であり、多様性を受容し生かすことにおいても諸外国に後れをとっている一因なのではないかと思います。
しかし今日、自由な生き方にあこがれて、将来はユーチューバーになりたいという中高生が出てきているように、「個人の生き方」と「仕事」に対する意識は大きく変わりつつあります。
会社や仕事が暮らしのすべてではない。この変化は、ちょっとした流行でもなければ、10年、20年という単位のことでもなく、歴史でいえば少なくとも200年単位の大きな転換点を迎えているのではないかと私は思っています。
仕事も生き方も「自分で決める」時代に
今も、多くの企業人の中には「会社の成長のためには、自分の人生を多少犠牲にしてもやむを得ない」という旧パラダイムのマインドセットが色濃く残っています。しかし、会社が個人の生き方を規定する、という日本式の大企業のあり方は、多様化する現代社会の価値観との隔たりが大きいだけではなく、予測不能な環境変化に対応していくために必要な企業変革にもブレーキをかけています。
先の見えないVUCAの環境では、どれほどの大企業であっても倒産の危機は常に身近にあります。それを回避するためには新たな知恵、新たな付加価値を生み出し続ける文化、それを支える風土・体質が不可欠です。
そして、新たな知恵、今までにない付加価値を生み出すのは、会社から指示されたことを忠実にこなすだけの社員ではなく、自ら考え、自ら動く自律的な社員です。それはすなわち、「自分の人生を自分で決める」主体的な社員なのです。
自分の人生でめざすものと会社がめざすもの、自分の生き方と働き方などを明確にしながら重なりを見つけ、共感できるところでコミットする。こうした主体的な選択をしていくことが人生を楽しくすることにつながるのだと思います。
今なら企業の社員もそういう生き方ができる、この時代の日本で働く我々は幸運である、と私は感じています。ようやく自分の人生、すなわち自分の幸せを考えることが企業の成長につながるという新しい時代が到来したのですから。
「自分で選ぶ」エネルギーが明るさと利益を生み出す
アウトドア用品のパタゴニア社の創業者イヴォン・シュイナードさんが書いた『社員をサーフィンに行かせよう』によれば、パタゴニアでは、サーフィン好きはいい波が来たらいつでも海に行ってよく、スキーヤーはいい雪が降ればただちに山へ行ってよいのだとか。さすが地球を守ると言い切る企業は違うなと思います。
今、八百屋をやっている私の周りには、それと同じような価値観やライフスタイルを持つ人たちがけっこういます。私が取引している農家さんの多くが、音楽をやったり、旅行をしたり、NPOを経営したりとさまざまな暮らしを営んでいて、農作業もあくまでその暮らしの一部、という生き方をしているのです。
そのような地に足のついた暮らしを営む中で、人によっては、千差万別な暮らしの中にある無数のニーズを感じ取って、自分も他人も幸せにするビジネスを立ち上げたりする。そういう多様な体験の機会を持つ社員がたくさんいれば、まさに企業はサステナブルな自然エネルギーで動いていくのではないでしょうか。
「自分らしく生きるとはどういうことだろうか?」
この問いを多くの日本人が自然に発するようになったとき、日本の社会はさらに一歩進んだ良い社会になると私は思います。
同じように、この問いを発する社員が楽しく働く会社は、枠にとらわれない考えが持ち込まれたり、さまざまな創意工夫や試行錯誤が行なわれたりして、多様な人々が生きやすい環境になるでしょう。
個人もまた、会社に自分を預けてエネルギーを失うのではなく、しっかりと自分の意思で関わって、そこに明るさと利益をもたらす。そんな人の主体性と幸せがセットになった「暮らし」というキーワードを、私はこれからのビジネスパーソンに投げかけていきたいと思っています。