資本主義という仕組み

今年の年賀状に私は、資本主義、という仕組みが発達してこなければ人間の精神はこれほど大きく発達してこなかっただろう、という「資本主義という仕組み」に対する基本的な信頼感を書きました。

これは、人というものは「意図的に努力をしない限り」楽なほうに必然的に流れていく特性を持った生き物だ、という、忘れてはならない事実を前提としています。

(自由な環境の中で)本当に困らないと力を出し切れないし本気にもなれないのが人間です。こういう特性を持った人間を可能な限り開花させてくれたのが「資本主義という仕組み」だったと私は考えているのです。

 

資本主義という仕組みは人をして「制約条件を超えて」考えざるを得ない状況に追い込んできた仕組みです。しきたりとか約束事という制約条件とのからみだけを考えていればよかったそれ以前とは違い、資本主義ではそうはいきません。

「競争」という、より大きなダイナミズムがさまざまなところに持ち込まれることで人間は考えざるを得なくなっていったのです。

より多くの人が「考えざるを得なくなってきた」資本主義という仕組みを通じて人類は、一部の人だけが文化を語る時代から多数の人が文化を語れる市民社会という歴史的な段階に達していった、と私は考えているのです。

 

こんなことをわざわざ言うのは、我が物顔に世界を蹂躙してきた私欲ばかりが価値観のすべてであるかのように見えるアングロサクソン的な金融資本主義の存在があるからです。

資本主義という仕組みを信頼する、と言っても、こうした偏った価値観に支配されている金融資本主義までをも肯定しているわけでは当然のことながらありません。こうした「虚」の資本主義は金本位制が破棄されたときに生まれ、冷戦終了後に制御できないままに発達していった資本主義のあだ花と言い得るでしょう。資本主義という原理が人類の歴史上はたしてきた大切な役割が、こうしたあだ花が栄えることで否定されてしまってはならない、と思います。

 

今回の未曾有の世界的大不況は紛れもなくこのあだ花が引き起こしました。そういう意味では、この大不況はあだ花を根こそぎ退治する絶好の機会だと思うのです。

むしろ、この機会を逃してしまうと当分の間、フェアでまっとうな本当の意味で自由な信頼のおける資本主義が世界の大勢を占めることは難しくなってしまうでしょう。そして、人類の多くがそのことで大きな犠牲を強いられることになると思います。

ただ、このあだ花を退治するのはそう簡単なことではありません。なぜなら、アングロサクソン的な資本主義は村上ファンドやホリエモンのような時代の寵児を生んだITバブルの系譜につながり、これらは、日本的な利権擁護的な古さに対してはある種の新しさも包含していたことは事実だからです。

それに加えて、彼らは、私たち誰もが持っている人としての欲望をその基盤に置いています。つまり、ネガティブなものばかりではないことがその本質を見誤らせているのです。泥棒にも三分の理はあるのです。

物事を本質的に問い直す

こうした根の深い問題を本当に解決しようとするなら、日ごろから「何が本当の問題なのか」「そもそもなんのためなのか」などということを「人を価値の中心に置きながら」じっくりと考える習慣が不可欠です。

私たちは日ごろ、「うまくさばく」ことが上手な仕事の仕方だと思って仕事をしているところがあります。こうしてうまくこなそうとしているときに考えているのは、ただ「どうやるか」だけです。こういう心の姿勢が、実は目先の利益だけを追うアングロサクソン的な資本主義のスタンスと同一線上にあるのだということを忘れてはならないと思います。

意味や目的を考えることなくただ儲かればよい、という姿勢で仕事を続けている限り、この大不況を、フェアでダイナミズムのある資本主義をつくり上げていくきっかけにするのは難しいと思います。

 

風土改革とは、物事を本質的に問い直す姿勢を持つことからスタートします。つまり、人間として当たり前のことが組織の中でも当たり前にできるようになることでもあるのです。

組織の中で人が物事を本質的に考えていく習慣を身につけていくことが今ほど必要とされている時代はないと思います。こういう習慣をなくしていることが、「儲かりさえすれば何でもやる」といった行動を生んでいったのです。

これからの時代、どこでもどんなときでも通用する本物の力を蓄えるということは、物事を本質的に捉えていく力を身につけていくことです。

「しっかりと物事を考え抜く力を持った人材を育てていく地道な努力を続ける」会社だけが明るい未来を期待する資格があるのです。