外資系企業でのモヤモヤ感

大嫌いだった、やたらに長くて数の多い、でも何も決まらない会議からの解放。意味のない長時間残業ともおさらば。組織の方向性に合致してさえいれば、自分で何でも決めて、どんどん実行できた。年功序列など関係なく、実力と成果しだいで給料は毎年2ケタアップし、ポジションも上がり、次の部門トップとしてサクセッサー(後継者)の指名も受けた。

が、6年前、気がついたら、私はスコラ・コンサルトの門をほとんど衝動的に叩いていた。もちろん、日本企業のあの世界にもう一度戻りたかったわけではない。でも外資系企業における成功の裏で、何か満ち足りることのないモヤモヤ感があったのはたしかだ。

当時は言葉にすることができなかったが、それが「目に見えにくいもの」への視点の欠如にあるとわかったのは、随分と後になってからのことである。

 

投下した資本を最も合理的に回収し、利潤を生み出すという目的からすれば、「目に見えるもの」だけを客観的事実として判断材料にするのは一番効率がいい。そもそも、それが資本主義の大原則である。けれど、私たち日本人の感覚としては、それだけでは何か物足りなさが残りはしないだろうか。この違和感が「何のために経営するのか」「何のための事業か」さらには「何のために生きるのか」という問いと密接につながっているように思う。

ここで江戸時代にいきなり話を転じたい。当時の日本は経済的には停滞期にあったが、人々はどうも豊かな文化生活をエンジョイしていたらしい。

彼らにとっての「働く」とは、「傍(はた)を楽にする」活動であって、人の価値は、地位の高さや財産の大きさよりも、どれだけ人様や世間の役に立っているかで見られていたというのだ。そして、夜はせかせか残業することもなく、明日も傍を楽にする行ないの原動力として、語らいや芸事に興じ、それを「明日備(あそび)」と呼んだ。

正解のない時代に生きる「明日備(あそび)」

私はこれから日本企業が目指す世界はこれだ!と直観した。「明日備(あそび)」を、現代版のビジネスとして再定義できないか。たとえば「明日備(あそび)」を、「明日の準備」と「あそび」の掛け合わせと捉える。組織や事業の未来を創造するための「明日の準備」には、目の前の結果を追いかけるサイクルからいったん離れ、自由に発想し挑戦することに心底夢中になれる「あそび」が必要だ、と私は思う。

「ワークライフバランス」で、合理的にワークとライフを切り分けてマネジメントしていく欧米的なやり方のよさは、私もかつてはそれを謳歌した身だからわかっているつもりだ。でも、仕事とあそびを二元的に切り分けることなく、「明日備(あそび)」として楽しむスタイルのほうが日本人には合っているような気がする。

折しもビジネスの環境は、「目に見える」計算可能な部分がどんどん縮小して、こうすれば成功するという正解はもはやない。そこでは「明日備(あそび)」がきっと生きるはずだ。
私がスコラ・コンサルトに転じてから、日本企業のお客様と一緒に悩み抜きながら求めてきたものも、「明日備(あそび)」だったように思う。

繰り返しになるが、短期的な儲けを追求するなら、欧米企業にならったアプローチがやっぱり有効だろう。そこに私たちなど使ってしまうと大変な後悔をするに違いない。

でも、自信を持って言おう。「明日備(あそび)」ならば絶対に負けない。